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母は箱入り娘【2】

2018年7月2日 (月)

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日中は姉は学校へ行っているので、退屈して外の運動場で一人土いじりして遊んでいると、休み時間に生徒も外へでて遊んでいる。
その中の一人で、いつも汚れた着物の前を肌蹴た嫌われ者の男の子。二年生か三年生位だったかが私の所に来て一緒に遊ぼうとすると、すぐ他の男の子が大きな声で「ヨシが和子さんに触ろうとしている!」と先生に告げ口しに行き引き離され、つまらなくなる。そんな時よく母と有田さんちに行き、イチゴ採り、山芋掘、竹の子、フキ、ワラビ採りに近くの山に付き合わされた。

村のお祭りになると必ず現れて生徒、子供を脅かしていたカドデンと言う大男がいた。両津の角の伝兵ヱとか言う家の生まれで頭が良すぎてキチガイになったのだと聞かされていた。
この大男がどんな寒い時でも裸で褌一つで大またで歩く姿は異様で怖く、お祭りの日になるとどこからかカドデンが来たぞ! との声で、押入れの中にかくれてガタガタ震えていた。別に悪いことをする訳でもないが、お祭りで皆外に出ていると留守の家に入って作ってあるご馳走を手づかみで食べたり、居座って中々動かないのだそうで、父は学校の中に入り込まれないように戸締りして廻って居た事を思い出す。
他に相川のオーちゃん、平沢のミーと三バカ有名人と言われて島民は知らない人が無いほどで、よく、子供が言う事聞かないとカドデンが来るぞ、相川のオーちゃんの所へ連れていくぞ等、恐ろしい物の引き合いにいつも出されていた。

学校が休みになると必ずどこかへ連れて行かれた。それが畑野の渡辺家(父、伍臓の前赴任校学校医)であったり、新潟の祖父の家であったり、前任地の泉の角兵衛家であったりで、今のように勉強ゝの生活ではなく、遊んでばかりだった。そんな出掛ける時は深浦より小木まで一里強あったと思う処をいつも歩いて行かなければ成らないので、私の小さい時は知らないが、4~5歳になると青年部の人が私をおんぶして送り迎えしてくれたが、背中の汗臭さがイヤで、”イヤ”と駄々をこねて叱られた。
小木町に油屋と言う懇意にしているお店があり、必ずここが中継所になり、お茶をご馳走になってからバスで両津、畑野方面に向かっていた。(帰るときもここまで迎えの人が来ていた)
畑野の渡辺家に一泊して父親同士、チビリチビリお酒を酌み交わしながら夜の更けるまで楽しそうに話し、母親同士は着る物とか、食べる物とかと話は尽きぬようだった。子供達は英子さん(私と年が一番近い仲良しのお姉さん)のお姉さん、お兄さん、弟さんの四人。私と姉の二人合わせて六人で庭に出たり、かくれんぼしたりで遊ぶのに事欠かない程敷地は広く、私達の育った環境と格段の差のある裕福な家庭で、佐渡で初めて洋館風の家を建てた事で有名なお宅でしたから、見る物、触る物、皆物珍しい物ばかり、その上美形揃い。まだ幼いくせに、いつも渡辺家へ行くとコンプレックスをその頃から持っていた。
帰りには、英子さんたちのお下がりを色々頂いた。時には真新しいのをお土産に用意してくれていた。村に帰ってから、頂いた物を着て歩くと今度は村の子供達から羨望の眼差しを痛く感じていた。
その頃はまだ私達以外は皆、着物で洋服を着ているのは珍しい時代であった。

北見角太郎さんと言って医学博士で河原田で耳鼻咽喉科の開業医をしている先生が居た。私が生まれた角兵衛家の長男。此の頃島内にお医者様は数少なく、島内あちこちから泊りがけ、お弁当持ちで、どこか体の具合が悪いと、耳鼻咽喉科などおかまいなしに掛かりに来る程評判が良く、佐渡全土で知らない人はいない人望の厚い先生。父は先生に良い嫁さんはいないかと相談を受けて、小木町の中継所である油屋の長女をお世話した。すごい美人で料理専門学校を出て、島内の婦人部で教えて廻っていたと聞く。角太郎先生も一目で気に入り目出度く結ばれた。以来、角太郎先生一家とずっと親戚以上のお付き合いが続いた。

つづく
次回は、お茶目な和子小学校の頃の話。校長一家の生活振りなどです。


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