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我が家の軌跡(奇跡)【1】

2018年5月1日 (火)

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私は父が立っている姿、歩いている姿を見たことがない。

昭和31年8月、父は福岡県の古河鉱業目尾(しゃかのう)炭田の保安課長をしていて落盤事故に遭い、第一腰椎骨折、脊髄損傷で下半身麻痺となる。(父36歳、母29歳、私2歳、妹1歳)。室蘭工大卒の父が、東大、京大出身の人たちよりも一年早い役職を常に歩いていた中での挫折。絶望と悔しさ。四六時中襲う幻覚痛(足の裏に焼き火箸を押し付けられるような痛みと父は表現)。一度は死ぬことも考えた父が、時を同じくして告げられた、重度脳性小児麻痺の次女を思い。生きて行こうと決め、27年間、寝たきりの生活を立派に生きた。その父を妹を母が何の愚痴もこぼさず、私になんの不自由も感じさせないで支えて来た。

これは私が見て、経験したこと、母から聞いたこと、母の手記を元に書いた実話である。

8月2日暑い日だった。その日の朝、子供達に笑顔で手を振って出掛ける、いつもと変わらぬ光景。母は、ヒーちゃん(妹、弘美の愛称)を寝かせつけ、私の手を引いて、友人宅に寄り、連れ立って購買会(炭鉱の社宅の一角にあるスーパーマーケットのような所)に夕食の買出しに出掛けた。毎日の日課だった。その日珍しく枝豆を売っているのを見かけ、九州に来て初めて見つけた枝豆に喜んで、今晩のお酒の肴にと、お父さんの喜ぶ顔を思い浮かべ乍一束買い、立ち話していた。すると庶務の方が本部から難しい顔してこちらに向かって歩いて来る。すぐ母を見付けて、ご主人が坑内でちょっと怪我したので、すぐ入院の仕度をして来てくれとせかされた。母は私とヒーちゃんを友人に託して、家に帰り最小限のものを持って会社の迎えの車に乗る。すぐ前の車に父はうつぶせに寝かされ顔の色は無かった。母は見た途端にちょっとの怪我どころではない事を知り、涙が流れた。それを見た父の「バカ泣くな」との一声だけ聞いて、うしろのの車に引き戻された。父のそばに友人であり、炭鉱医の浅井先生が付きっきりで、脈を測りながらゆっくりの運転で、途中二回気付けの注射を打って、やっと飯塚病院へたどり着いた。三日が峠と宣告されて、新潟の兄、佐渡の父、兄に連絡。会社の人14~5人廊下に詰めていた。子供のことは心配しなくてもいいからといわれて、母はずっとベッドのそばについていた。

父は当時、保安主務で、毎朝一度、坑内の情況を見て回っていた。たまたま腰をかがめて歩いている時、背中に石が落ちて来たとかで、体が二つに折れ、脊髄の第二と三が重なっている状態だった為、うつ伏せの姿勢で牽引を十日間位続けた。その間どんなに苦しかったことか。下腹部のあちこちに床ずれが出来て、母の言葉を借りると、男のシンボルの途中から穴が開いて尿カテーテルが顔を出す程だったそうである。此の頃より会社の人の泊まり込みは二人になった。十一日目にやっと仰向けになることが出来たが、それからが大変だった。激痛が頻繁に襲うようになり、痛みが一日に何回と来る。山あり谷ありの痛みらしく、山のときは女の人のお産の時の様に寝台がキシミ、歯を食い縛って脂汗を流して耐える。何分か続くと谷に入り、少しすると又山の繰り返しだった。谷に入ると廻りの者に当り散らす。特に母と付き添いさんに”何を悪いことした!、何故こんなに苦しめるのか!”と。母はただ見ているしかなく、胸を締め付けられる思いが続いた。その頃、妹のヒーちゃんが脳性麻痺で或ることが判った。母は、”逆子のようです”と医師に訴えたにも関わらず、心音が正常の位置に聞こえるから大丈夫と言い張り、予定通り自宅で出産したところ三日がかりの難産で逆子、仮死状態で生まれ、先生が足をつかみ逆さに振ったり、頭を叩いたりしてやっと産声をあげたそうだ。(今なら、訴えれば勝訴です。)1歳を過ぎてもお座りが出来なかった妹を、母は丸々とふとっているからだと思っていたそうだ。が、それにしてもおかしいとの事で診察を受けた結果である。


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